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今週は消防訓練がありました。
大隅肝属地区消防から3名の消防士の方々を講師としてお招きし、子ども達、そして職員に対して火災が起こった際にどうしたらよいか、火災が起こる前にどのような準備をしておくと良いかなど、わかりやすく教えていただきました。
子ども達は、消防車が到着した瞬間からずっと釘づけでした。笑
消防士の方から、「避難のときのお約束」を尋ねられ、「おかしも」と答える子ども達。「おさない、かけない、しゃべらない、もどらない」もきちんと覚えていました。有事の際、「一人の犠牲者も出さない」ために、今後も毎月の避難訓練を、一つ一つ大切に実施していきます。
明日から、いよいよ2月に入ります。一段と寒い日も出てきますので、体調管理に気を付けていきましょう。嘔吐や発熱などの体調不良もまだいます。お大事になさってください。
今月もまた、写真のあとにつらつらと長文を書いております。お時間のある方はぜひお読みください。子どもと接するときの参考になれば幸いです。※消防士さんには写真掲載の許可をいただいておりませんので、顔の部分を加工しております。
「この子は何度も叱られているのに、どうして学ばないのだろう?」
それは、叱るからかもしれません。
今週は「叱る」について考えていきます。
あえて強めに言いますが、私は「叱ることは間違っている」という立場にいます。
それは、子どもに恐怖を与えるからです。子どものためと言いながら、子どものためになっていないからです。
人間は、恐怖などの不快な感情に触れた時、意識がそこに集中し、その状況から逃がれようとします。
叱られて恐怖を感じている子どもが学んでいるのは、「叱られているときは、どのように振る舞えば許されるのか」ということでしかないのです。しかし、叱る側は「叱られる原因となったその場面で、どうしたらよかったか」を考えてほしかったり、伝えたかったりしているはずです。
つまり、恐怖を与えてしまうと、本当に意識を向けてほしいことに意識が向かないのです。このズレこそが、私が「叱ることは間違っている」とあえて強めに主張する理由なのです。
なにかを伝えたいとき、子どもに恐怖を感じさせるべきではありません。内心は怒っていたとしても、それを子どもに感じさせてはいけません。
ではなぜ、叱り続ける大人がいるのか。その最も大きな要因は「叱られなければ学ばない」と誤解していることにあります。だから、「この子は何度も叱られているのにどうして学ばないのだろう?」という冒頭のような考えが当然のように湧いてくるわけです。
「叱られて育った/叱って育ててきた」から、「叱られないと成長しない」という主張は、大きな誤解なのです。それは、「地球は球体ではなく平面だと信じて疑わなかった」、「地球が回っているのではなく空が動いていると信じて疑わなかった」昔の人類のように、実感や経験則だけを頼りに、他の理論を拒み続けているに過ぎません。
叱られることによって心が強くなる。理不尽に耐えることによって我慢強くなる。これも全部誤解です。抵抗しようとしなくなるだけです。
最終的に、大人になってから苦しくても抜け出そうともしない。やりたいことがなにもない。そんな人になってしまいます。
叱る人が1人でもいると、人、組織、社会に悪影響があります。
「じゃあ、やりたい放題させるのか」とよく言われます。叱るしか手段を持っていない方は、そのような発想になるのも頷けます。しかし、
優しくすることと、甘やかすことは違います。
自由を尊重することと、なんでもしていいとしてしまうことは違います。
子どもの意見を聞くことと、子どものいいなりになることは違います。
世の中には、伝えるべきこともあります。本当に伝えたいことは、真剣に、適切な方法で伝えればいいのです。「伝える」意識での保育・子育てを心がけていきましょう。
伝え方については、また別の機会に…。
園長
(「叱る」について念のため補足)
叱るには、辞書的な「(目下の者に対して)、声をあらだてて欠点をとがめること」という意味と、イメージとしての「理性や教育的意図に基づいて、相手を教え諭すこと」という意味との2つが混在しています。前者の「叱る」が間違っているということについては、腑に落ちる方が多いかと思われます。しかし、おそらく後者の「叱る」については賛否が分かれます。
私は、後者の意味での叱るという言葉についても、否定的です。その意味自体はわかりますが、「そんな言葉を使う必要がない」という立場です。我々は、叱るという行為を手放したとしても、子どもたちに、部下に、同僚に、伝えるべきことを伝えることが出来ます。
”叱っている”と主張している人たちは、「この子のためを思って…」、「教育的意図があって…」、「私はあえて怒っているように演じている」と、”叱る”を隠れ蓑にして、自分の感情や価値観、勝手な期待に基づいた一方的な指導を、正当化し、エスカレートしてしまっているケースがほとんどです。
それゆえ、どんな意味での「叱る」だったとしても、もはや用いるべきではなく、我々は「叱る」という営みを手放していかなくてはならないのです。