今週は、台風10号の接近による2日半にわたる閉所にご協力いただき、ありがとうございました。台風の力はすさまじく、被害確認に来ると園庭にある園舎増改築記念樹がぽっきりと折れてしまっていました。
子どもたちは保育園にくるなり、「なんで木がたおれてんのー!」「桜の木がおれてるー!!」と自然の脅威に衝撃を受けた様子でしたが、「きっと虫がいっぱい来てるー!」「つかまえようー!」とすぐに超プラス思考に切り替え、虫取り大好きの子ども達でした。笑
何とか木は起こしていただきましたが、根を張ってくれるかどうか。子ども達にとっても園にとっても大事な木なので、なんとか生き返ってほしいところです。
さて、本日でプール納めとなりました。この2ヶ月間のプールや水を使った「遊び」を通して、子ども達は様々な学びを得てきました。月末なので、ちょっと教育的な話もしてみようと思います。
『子どもは、一生懸命遊びます。』
大人は、「一生懸命」という言葉と「遊ぶ」という言葉が結び付くことに、違和感を抱くかもしれません。大人の世界では、遊んでいるという状態と、一生懸命やっているという状態が対の存在として捉えられることが多いからです。しかし、子どもは遊びだからといって手を抜きません。「まあこのへんでいいや」みたいなものは全くありません。大学院まで出た私から見ても、素晴らしい探求心、追求心です。だからこそ「一生懸命遊ぶ」という一見不思議な言葉が通用するのです。
幼児教育の根本にある考え方として、子どもにとって「遊びは学びそのもの」であり、学びは遊びでなければならないというものがあります。そのため、子どもは遊んでいるとき、同時に学んでいるわけですが、「学んでいる」という意識はありません。子どもは、ただその行為をすることが目的そのものであって、その行為自体を楽しんでいるからです。遊びを楽しむ中で、無意識に、その遊びに関わるあらゆるものを、ひとまとまりの全体として、自分の心と体に引き受けていきます。これが、幼児期における学びです。
そのため保育士は、「こういう環境をつくれば、子ども達はこうやって遊ぶんじゃないか?」と子どもの姿を想像し、環境構成を行うことによって遊び(=学び)を促します。うまく行かないときは環境の調整を行い、「遊びたくなる」ようにしていきます。
やりなさいと指示されて強制的に「やらされる」のは、幼児教育ではありえません。
体育の分野で有名な話があります。
昔、逆上がりが出来なかった子に、毎日一生懸命に指導をした教師がいました。子どもは先生のサポートを受けて毎日一生懸命に練習をして、やっと逆上がりができるようになりました。その時、子どもはうれしそうな顔をして「これでもう逆上がりしなくていいんだね」と言ったというエピソードがあります。教師はよかれと思ってやっていたことが子どもを苦しめていたことに気づき、大変ショックを受けたようです。
大人は「できるようになったらうれしいだろう」とか、「逆上がりができるようになって自信がつくだろう」とか、「努力して達成することの大切さを学べるだろう」とか色々と勝手に美化しますが、子どもにとってその過程は苦痛でしかありません。成長の実感や達成感どころか「やっと解放された」「やっと終わった」という感覚です。また、完成形を大人が大人の都合で勝手に設定して、何度も”失敗させられる”中で、その子の中での自己評価は確実に傷ついていきます。
「こういう力を身につけてほしい」という願いや、「自信をもってほしい」、「努力して達成する喜びを味わってほしい」などの大人側からの思いがあること自体は素晴らしいことですし、間違いではありません。しかし、それは「やりたくないことを強制されることによって”しか”身につけられないものなのか」子どもと関わる大人はよ~く考える必要があります。
子どものうちは、大人が活動を指示してあーだこーだ指導する必要はありません。子どもが楽しい!と思っていろんな遊びに興味・関心を持って自分から取り組んでくれる状態を善しとし、「その遊びが深まるように支援する」という役割に徹したほうが、最終的には子どもは豊かに育ちます。子どもには、子どもの世界で、のびのびと自由に遊ばせてあげてください。
今週もありがとうございました!来週もよろしくお願いいたします!
園長 松下烈